「カ、カゲさぁ~ん……」隣から情けない呼び声が聞こえる。露天風呂に浸かり始めてものの二分も経っていない。なんだよと振り返ると、泣きそうに俯いている。蒸気で曇った視界にもわかるほど、顔は耳まで真っ赤だ。のぼせたか? 心配して肩を掴む。「……した」あ? 「……たっちゃいました」尖らせたくちびるから漏れた言葉に、一瞬理解が追いつかない。刺さる感情に含まれた熱っぽさを察知して、まさか、と硫黄でうすく濁った湯の中に視線を移す。太一の両手が局部を隠している。元気すぎんだろ! 思わず吹き出す横で太一はうぶぶ、と顔を半分だけ湯の中に沈めた。部屋戻んぞ。立ち上がると、火照った身体を初冬の夜気がひんやりと包む。人目を気にして上がるのを躊躇う恋人を急かして、脱衣所へと向かった。
体を拭うのもそこそこに、雑に浴衣を羽織りその場を後にする。背を丸めて歩く太一は、間抜けにも左手で自分の局部を隠すように押さえている。もう一方の手を引いて、部屋へと続く廊下を急ぐ。甲が浅い旅館のスリッパは歩きづらくてもどかしい。けれども、こんなときでもぺったぺったと呑気に鳴る太一の足音はかわいい。辿り着いた客室の引き戸を前に立ち止まる。無駄に長いキーホルダーに繋がれた部屋の鍵が、広く空いた浴衣の袖口に引っ掛かる。もたつく手元に少しだけイラつきながら開錠し、戸を開けてすぐさま太一の背を壁に押し付ける。なに人前でおっ立ててんだよ。左の口角だけ上げて尋ねる自分は意地悪だ。しかしどうしても言わせたい。「……っなんか、カゲさんの身体が……かっこよくて。背中とか肩…とか……それで……」鼻をつく畳の匂いに、ここがいつもと違う場所だと思い知らされる。やべぇ、と口のなかでつぶやいて、そのまま目の前の首に噛みついた。少し長めの太一の髪の先からは、冷えた水滴が真っ直ぐ床に落下する。片手で腰紐を解きながら、空いた手は胸元を探る。頼りない結び目はあっけなく解け、木綿地の下に隠れていたひょろりと長い胴が露わになる。温泉に浸かった後の肌は滑らかで、触れた手のひらが吸い付く。密着する心地良さに思わずごくりと喉が鳴る。胸の突起をゆびの腹でやさしく撫でると、太一は全身にきゅう、と力を入れて控えめに声を漏らす。「あ」我慢すんな。小さく告げたくちびるでそのまま胸を啄む。「ん、あ……か、げさん……」すきです。乱れた呼吸に言葉は掻き消される。這わせた舌のざらりとした感触に、太一は身体を竦ませる。胸だけを執拗に舐めながら、手は背筋や腹をさわさわと愛撫する。徐々に下る手は核心に近づく、けれど決して触れはしない。繰り返される駆け引きは、太一の下着にじわりと染みをつくる。胸から顔を離して今度はくちびるにキスをする。不意に足音が聞こえた。遠くから近づいてくる複数のそれに、一気に緊張が高まる。愛撫する手もキスも止み、ふたり分の荒れた呼吸だけが充満する。気持ちよかったねー。ねー。肌ツルツルになったー。夜ごはん何が出るかなー?扉を一枚挟んだすぐ向こう側で、足音の主たちが蝶のようにはしゃいで通り過ぎる。一瞬の出来事がまるで永遠のように感じられた。研ぎ澄まされた感覚が虚空に浮かぶ。共に過ごす時間が増すごとにすっかり慣れたはずのものが、全身に刺さる。快感、羞恥、欲情、慈愛、嫉妬、恍惚、祈り、そのすべてが綯い交ぜになって、興奮の狭間で凪いだ心を掴む。不快で憎くて手放したいはずだった感覚を、こいつは何度だって軽々と超越してくる。目を合わせると、遠ざかる足音に緊張が一気に解けたのかいたずらっぽく笑っている。悔しい、と思った。さっきまで余裕などなかったはずなのに、舌を出して笑ってやがる。目の前の恋人をめちゃくちゃにしてやりたい。いとしさと欲望の境目が曖昧なまま、下着の中へ手を伸ばす。少しだけ乱暴に弄って直に触れたそれは、やはりすでに濡れていた。先端をぬらぬらと指で撫でると、迫る快感に太一は泣きそうだ。おれの浴衣の肩口をぎゅっと握る手がかわいい。イキてぇか。耳元で吐息まじりに囁く。「カゲさん、かっこいい、はやく、」してください。上下に摩擦すると、全身を甘く震わせる。逃すまいとさらに擦ると、中心から広がる快感の波紋に覆われてあっという間に果てた。はえーよ。笑って首を食みながら、太一ごと壁に凭れる。耳元にかかる息は興奮した犬みたいだ。幸福なくちづけは止まず、頭の中で持ってきたゴムを数える。足りねぇかもな。ついさっき絶頂を迎えたばかりなのにがっついてくる太一を見て笑う。何がおかしいんすか?首を傾げる恋人が、窓の外で淡く発光する青い月に照らされている。夜はまだ浅い。
初出:2021/11/16(Twitterにて)